どうも、tamaminaoです。
昔から書評を読むのが大好きです。
同様に、書評ってとても不思議なジャンルだと思うのです。
読書は、本と自分だけの時間に埋没する、とても個人的な体験。
ページをめくるとき、心の中には喜びや怒りや悲しみやさまざまな感情が湧き上がりますが、その感情は、読んでいる本人だけのもの。切り開いて見せることはできません。
でも、だからこそ、強烈な感動や違和感や言い難い感情があふれだしたとき、この読書体験を誰かに伝えたい・共有したい、そう思ってしまいます。
本を読んだことのある人なら、誰しも覚えがある感情ではないでしょうか。
ここに「書評」というジャンルが登場してくるわけです。読書という非常にプライベートな体験を誰かと共有するのが「書評」。そう考えると面白いジャンルだと思いませんか。
そんなわけで、今日は最近出会ったお気に入りの書評本、高山なおみさんの『本と体』を紹介したいと思います。
作者の高山なおみさんとは
作者の高山なおみさんは、レストランのシェフを経て料理家となり、現在は文筆家としても活躍しているという経歴の方。レシピ本やエッセイ本や絵本等多数出版されているので、ご存じの方も多いことでしょう。
感覚的で詩的な書評
『本と体』を読んでまず感じたことは、非常に感覚的で詩的な書評だということ。理詰めの文章とは対極な感じです。
高山さんの現在の日々や過去のあれこれが描かれ、本はその中にふわっとあらわれ、本から得た感情がそのときの生活と地続きで語られます。
例えば、覚和歌子さんの詩集『ゼロになるからだ』の紹介はこんな感じ。
去年の暮れのことです。
その日私は、朝ごはんの途中で腰の痛みに気がつきました。
前の日に棚の整理をしていて、立ったり座ったり、重たい物を持ち上げたりと夢中で働いていたから、もしかしたらぎっくり腰の前ぶれかも。
(中略)
陽の光をいっぱいに浴びながら、年末に寝込むなんて、なんだか贅沢だな。けれど、いつまでたっても体は温まらず、そのうち寒気までしてきました。おかしいなと熱をはかってみると、三十七度七分、それでようやく風邪だと気がついたのです。
(中略)
薬を飲んで、眠っては夢をみ、本を読んではまた眠りました。
覚和歌子さんの詩集『ゼロになるからだ』。
遠くに置いてきたような私の体。
体の奥の方で、ちろちろと流れる川。
その川に小舟を浮かべ、静かな心だけになって、夢を渡り歩いているような読み心地。微熱のせいでぼんやりした頭が、本の世界と入り交じります。
もしかしたらゼロになるからだとは、こんな感覚のことをいうんでしょうか。
『お縫い子テルミー』(栗田有起)
もう一つ紹介したいのが、栗田有起さんの『お縫い子テルミー』を案内する章。
高山さんは、用事が重なり、古くからの友人の家に泊めてもらっているという状況です。
友人が出かけた後の家でぼんやり過ごしているときのこと。「今まで知らなかったいろいろが、部屋じゅうに息づいて、それでますます友人のことを好きに」なり、「女同士でこうなのだから、男の人の部屋に泊まったり、居候なんかしたら、いったいどんなことになってしまうのだろう」と考え始めます。そして、ふと、昔読んだ小説を思い出すのです。「これぞ恋」という小説を。
小説のタイトルは最後でようやく出てきます。「小説のタイトルを思い出した。栗田有起さんの『お縫い子テルミー』だ」と。
いいですね、このセンス!
個人的な「読書」を追体験する感覚
高山さんの文章を読むと、何でかな、どの本もすごく読みたくなるんです。
ちなみに私は、本書を読み終えたその日に、早速2冊を入手してしまいました(多分、まだもう少し読むと思います)。
なぜ、こんなにもひきのある書評になっているのか。
思うに、客観的に本を紹介するタイプのレビュアーではないところが、高山さん、及びこの本の魅力だと思うのです。
『本と体』では、書き手(作者)の紹介はほぼなく粗筋案内もさらっとしています。
彼女が重点をおいているのは、あくまでも「本を読むこと」から生じた個人的な体験の部分。「私」という人間がどのような状況でその本を手に取り、どう感じたか。
声高ではないそっと囁くような(私はそう感じました)筆致で、生活や心に生じた変化や潤いや慰めや。読書から得た核のようなものを教えてくれます。
高山さんのごくごく個人的な読書を追体験するような感覚。それこそが実に貴重で、私たちの心をゆさぶるのです。
こんな書評ができるんだ。
理論で文章を書いてしまう私は、実にはっとさせられました。
次に読みたい1冊を探している人はもちろん、本や映画等のレビューをを書いている方にもぜひ読んでみてほしい1冊です。
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